17回卒 (明治42年) | 1クラス全員が集団カンニングしたのを先生に見つかり全員が落第した。 |
21・22回卒(大正2・3年卒) | 修学旅行で仙台、松島を訪ね、途中仙台1中と蹴球試合をした。 仙台1中は揃いのユニホーム姿。 荘内中はネルのシャツにズボンを捲り上げ、裸足で田舎者丸出しだったが圧勝した。 |
25回卒(大正6年) | 教室の寒暖計が零度になると授業が中止になる事から、寒暖計を雪の中に入れ、水銀柱を零度以下に下げて全員早退したが後でバレ、先生に大目玉を食った。 |
28回卒(大正9年) | 大正9年4月酒田中学が開校。荘内唯一の存在を誇った荘内中学は「県立鶴岡中学校と改称された。始業式の後、伝統の荘内中学に誇りを持って学んできたのに、酒田中ができたからと言って校名を変えたのは納得できないと授業を放棄したがどうにも成らず荘内中の卒業証書を逃した連中は落胆した。 |
32回卒(大正13年) | 8月3日隣の鶴工グランドから「鳳嶺月峰雲に入り〜〜」の校歌の大合唱が聞こえてきた。鶴中野球部が県内の中学野球大会で初優勝した瞬間だった。 鶴中の優勝で町の野球熱は高まったが荘内勢は“出ると負け”が続いた。 実業家で市会議長の故平田吉郎氏は士気を高め「甲子園へ・・・・」と当時の金100円で純銀のカップを作り「平田杯争奪戦」を始めた。以後鶴中、南校を通じて10勝しているが甲子園にはいまだ出場していない。 |
52回卒(昭和20年) | 3月に4、5年生の合同の卒業式が行われた。早く戦力として役立てたいとの狙いだったらしい。 戦争突入の年の入学で、まともに勉強したのは1年の時だけ。勤労奉仕や学徒動員の連続でそれに繰り上げ卒業のオマケつきだった。 |
53回卒(昭和21年) | 学園の森に自由がよみがえり賑わい始めた頃、最上級生230人が「勤労動員中痛めつけられた教師の責任追及だ」と授業を放棄して鶴岡公園に集結した。当時、生徒に働かせて酒を飲んでいた先生もいたと言う。ヤリ玉にあがったのが5人で次々に呼び出しつるし上げ、職員室の教師はいつ呼び出されるか震えていたと言う。ストは4,5日続き、男女交際、映画館や喫茶店への出入りの自由の条件を学校が飲み、一件落着したが“人権裁判事件”と語り継がれている。 |